イタリア

北イタリアの
小さなホスピス
と在宅医療介護ケア

地方自治体コムーネの社会福祉サービスと南欧型看取りの博愛精神
 

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問合せ・申込み

訪問看護ボランティア団体はヴェニスの北にある小都トレヴィーゾにあります。ホスピスは、近代のインフラの代表格である病院の理念から抜け落ちた部分、「不完全であること、失われること、治らないこと」を受け入れた 人間を支える、ポストモダンの時代に生まれたケア制度です。大きな病院の緩和病棟の代行としてではなく、あくまでも死を日常 - 家で迎えることで、患者が最期を自分らしく生き、 人間らしく死を迎えるという考えに基づく、ターミナル・ケアの草の根運動です。

 イタリアの特徴とその底力は、人口数万の小さくて魅力的な街が綺羅星(きらほし)のごとく点在することにあります。どこも自然の美しさと歴史的佇(たたず)まいをもち、個性ある生活環境を誇っています。北イタリアのヴェネツィア近郊にあるトレヴィーゾもその代表の一つ。イタリアと日本という、国と風土の違いを超えて伝わってくる「看取り」の心とは?



訪問看護ボランティア団体 

北イタリア トレヴィーゾ

訪問看護ボランティア団体はヴェニスの北の小都にあります。ホスピスは、近代のインフラの代表格である病院の理念から抜け落ちた部分、「不完全であること、失われること、治らないこと」を受け入れた 人間を支える、ポストモダンの時代に生まれたケア制度です。大きな病院の緩和病棟の代行としてではなく、あくまでも死を日常 - 家で迎えることで、患者が最期を自分らしく生き、 人間らしく死を迎えるという考えに基づく、ターミナル・ケアの草の根運動です。
イタリアの特徴とその底力は、人口数万の小さくて魅力的な街が綺羅星(きらほし)のごとく点在することにあります。どこも自然の美しさと歴史的佇(たたず)まいをもち、個性ある生活環境を誇っています。北イタリアのヴェネツィア近郊にあるこの小都もその代表の一つ。
 突然襲った癌(がん)で最愛の夫を失った女性が、死と向き合った夫との深い交流の体験をもとに、癌末期患者の家庭介護の民間ボランティア組織を設立し、死を迎えるまでの終(つい)の棲(す)みか、ホスピスを手づくりで完成させたのです。女性は、医療や福祉の専門家ではありません。夫の死を契機に、人生を見つめることからこの世界に飛び込み、志を共にする人々と一緒にホスピス建設に命をかけました。
 「死はスイートなものよ」。女性の言葉に衝撃を受けた横川善正教授は、彼女を支え、取り巻く人々と、その夢の実現―ホスピス建設に向けての歳月に寄り添うことになりました。イタリアと日本という、国と風土の違いを超えて伝わってくる「看取り」の心とは?
イタリアは、イギリスやドイツと比べ、ホスピスの後進国。自治体には頼れず、制度も不備ななか、個人の想像力に始まり、それに共鳴する人々が真のボランティア精神で取り組んだ女性達の活動は、福祉の原点を問い直します。そこにはカトリックの国らしく、他者を思う博愛の気持ち、連帯の精神があります。そんな社会活動家の女性ですが、公的な場に出るには服装に気遣うし、食事には手を抜きません。末期患者に音楽が最良の点滴になるという人間らしい発想もイタリア的です。
 注目すべきは、彼女達の活動を支える背景に、歴史と自然に恵まれた小都そのものがあるという指摘です。この街全体がホスピスなのだと言います。
 福祉は北欧がモデルだと言われてきました。ですが、家族や地域コミュニティーを大切にする南欧型社会を見直すのも、高齢化を迎える日本の社会を再考するのに重要ではないでしょうか。明るく陽気なイメージばかり強調されるイタリア社会が本来もつ生真面目(きまじめ)さが伝わります。

ホスピス

いわゆる団塊の世代がいよいよ人生の最終ステージにさしかかる十数年後,いま日本にある病院の半分がホスピスにとってかわりそうな予感がします.これは決して,絵空事ではありません.
 今日の日本のホスピスは,ともすると「あっちの世界」として,日々の意識からはできる限り遠ざけておきたい場所として捉えられがちです.しかし,ここで紹介する北イタリアの小都発の末期介護組織では,患者も家族もボランティアも,みな例外なく死にたいして開かれており,それぞれが本当に生きているのだ,という感慨を深くさせます.
こんなホスピスだったら今すぐにでも予約しておきたい,また,心ある医療者なら,今の病院よりも働き甲斐があると思うであろうようなスタッフと施設に出会えます.彼らの生き方,会話,表情は「スイート」であり,「アーチスティック」とさえ呼んでいいものに映ります.
 これからのホスピスのみならず,ボランティア活動,そしてわが国の医療が向かうべき方向がここに示されているように思います.同時に,我々の幸福観や生命の価値にたいするおおきな転換を呼びかける,新しい時代の静かな革命基地がホスピスであると考えます.
限りある生命と時間を濃密に生きようとするホスピスの患者やそこに寄り添うボランティアの生き方とが、ぎりぎりまで自己を追いつめながら自己実現に命をかけるアーティストのあいだには、何らかの精神的相同を見いだされます。

参加者からの声

イタリアと日本のそもそもの医療保障システムの違いを感じました。(税金でまかなうのか保険制度か、あるいはホームドクター制といったあたり)また、制度化をまたず必要なものを創り出していく非営利組織のエネルギーとそれを可能にする人々の発想のあり方などに感心しました。  



日本は、制度や人の不足等を理由にして行動ができない(受け身)ことが今のありようだと強く感じました。ボランティアの人々を巻き込む力や本来の意味での多職種連携の実践がイタリアには現存しており、歴史や地域に愛着をもって大切にしていく心と相まって、今の日本が高度成長期に失くしてきたものについて深く気づかされる機会となりました。心や人とのつながりを大切にしているからこそ、どの施設にも臨床心理士の方が活躍されていました。これから日本は、必死になって取り戻していかなければならないと思います。



ホームドクターの存在とその役割の重要性
どこの施設・場所に行っても臨床心理士の存在が目立っていた。各職種の役割がはっきりしているのだと感じた。
日本では、看護師が何でも請け負っている感が強いので大変うらやましく感じた。
ホスピスで自然や芸術にあふれた環境を目にすることができたこと。特に、ミニコンサートにも参加させて頂きとても楽しい時間を過ごせました。
 



日本との違いで、介護士の社会的身分の高さ、臨床心理士の活躍の場が確保されていることの2点です。
理由は、日本では何でも看護師の役割と思い、既得権益を守る姿勢が強く感じられますが、互いの役割を認め、専門性を発揮すればよいのだと考えることができた。
 



ボランティアや慈善団体が大きな力を発揮している点が日本にはあまりないと思いました。また、市民の寄付金等が資金源になっている点も日本にはまだ浸透していないと思います。



人との出会いに感動し、イタリアの歴史の重さを感じながら、イタリアなのになぜか風情を感じたりして、ナントも言えない温かさやほどよいバランス感覚に魅了されました。また、在宅ケア事情など今後の研究におおいに示唆をいただきました。



仏陀の言うところの「生老病死」という人間の苦悩に日々向き合う”ヒューマンケア”の理想を求めて努力し、熱意をもって取り組んでいる(あるいは、そばに温かく存在し続けていらっしゃる)人々について活動参加の動機や背景などの個人的お話も直接聞くことができ、期待以上に関心や理解を深めることができました。